I don't take on his style ……?



 事務所で黙々と仕事をしていたら、急に後ろから後輩に抱きしめられた。
「下川くん?」
 呼び掛けに構わず、彼は私の髪に顔をうずめてくる。机の上にはノートパソコン以外にもいろいろ書類やファイルが乱雑に積み重なっていて、それが崩れないように私は彼の無体に対して大きな抵抗はしなかった。
 そういうところも計算したうえでの行動なのか、下川くんは楽しげな声でささやいた。
「やっと二人きりになれましたね、先輩」
 壁の時計は6時を指している。今は夕方で、事務所には私と彼以外に誰もいない。
 残業をするのはいつも私と彼しかいない。そしてこういうときに、彼はよくこんないたずらをしてくるのだ。セクハラはやめろと何度も言っているのに。
 もちろん、完全な無抵抗は私の性に合わないので、
「ジャマだから早く離れてくれない?」
「痛い痛い痛い痛い」
 私は首に回された右腕を強めに抓って、彼を離れさせる。
 こんなじゃれあいのようなことをやっても、住宅地から離れた場所にあるプレハブの事務所の中のことだから、近隣に迷惑がかかるはずもなく、私はそっとため息をついた。
 ここは田舎の内装業会社だ。田舎らしくとても小さな会社で、社員は5人。デスクワークはほぼ私と後輩の下川秋良(しもかわあきら)くんの二人に任されている。あとの3人は現場で作業をする職人さんだ。社長の大戸川さんからして昔気質の職人のせいか、書類整理や営業会計事務作業その他が大の苦手と来ている。なので手続きはすべて私たちがしなければならない。まあそこは適材適所というやつで、職人3人が現場を担当して、私たちがそれ以外のことを担当する。そういう分担になっている。
 私は元々この会社にいたわけではなかった。父の死を契機に実家に戻ってきたのだ。母を一人きりにさせておきたくなかったというのが大きな理由だ。別に母は体に不自由があるわけじゃなく健康そのものだったが、やっぱり長年連れ添った夫を失うというのは大きな出来事だったようで、私が戻ってくることを伝えると思った以上に喜んでくれた。大切な人を失うと、心に大きな穴ができる。
 もちろん勤めていた会社は辞めなければならない。新たな就職先を探そうと昔の知り合いにいろいろ尋ねて紹介してもらった仕事が、地元の有限会社『大戸川インテリア』の事務員だった。厳密には特例有限会社になる。
 仕事は必ずしも忙しいわけではなかった。かといって暇でもなかった。端的に言うなら、予測ができなかった。なにしろ田舎の小会社である。それなりにお得意様はいるものの、一度に大金が舞い込んでくるような大きな仕事は少ない。なので付き合いのある建設会社からの下請けや、同じ内装業者への加勢が主な収益源になる。が、それだけで経営が成り立つわけがない。個人の依頼も随時受け付けている。そしてその個人の依頼というやつがなかなかに厄介なのだった。
 田舎には金持ちが多い印象があるが、そうじゃない人も当然多い。どれくらいの利益を上げられるかは、相手の予算にかかっている。それはどこに行っても変わらない当たり前のことだが、田舎で人同士の付き合いが深いといろいろ面倒なことになる。ビジネスとしての付き合いが通じないときがあるのだ。
 知り合いなんだから融通を利かせてくれと頼まれるのは日常的にあるし、無茶な日取りを勝手に決められてしまうこともあった。社長は短気で、他の2人も似たり寄ったりの性格なので、トラブルも何度か発生した。これでよく会社経営など続けてきたものだと、正直私は今の職場の成り立ちが不思議で仕方ない。しかしうちはまだマシな方で、他所の会社では内装工事の費用を払ってもらえないということがあったらしい。踏み倒されたのではない。客がお金の代わりに大量の野菜を持ってきたというのだ。物々交換のつもりだったという。田舎の人間の感覚は時に理解を超える。なんとか話をつけて費用は払ってもらえたらしいが……。
 そんなこんなで、今の仕事は私の手に負えるのか余るのか、なんとも難しい類のもので、体はともかく心が休まらなかった。
 残業をしなければならないほど仕事が多いわけではない。切り上げようと思えば毎日定時に切り上げることもできる。しかしあらゆる状況に対応しなければと考えると、残業していた方が気が楽なのだ。だから最近は、大体7時までは事務所に残って作業をしている。
「先輩は神経質すぎるんですよ。もっと気楽にやった方が効率もいいって」
 後ろからそんなことを言われて、私は椅子に座ったまま振り返った。
「仕事をしっかりするのは当たり前のことじゃない。給料もらってるんだから」
 こんな業務形態では給料がいつまでもらえるかわかったものじゃないし。
「でも力入りすぎてると、ミスも増えるんじゃないかと心配で」
 心配ね。
 細かいミスはたまにあった。しかし最近は記憶にない。
 たぶん、この後輩がうちに入ってきてくれたからだと思う。
 下川くんはなかなか仕事ができる子だった。
 彼にはもっぱら営業を任せている。事務は私一人でもこなせるが、外回りの営業は同時にはこなせない。元々営業をして仕事を取ってくるということさえしてこなかった我が社において、下川くんは新たな顧客層の開拓を進めている。実際、隣の市からの依頼が増えた。年上の女性に取り入るのがうまいのだ。彼曰く、「おばちゃんたちを味方につければこわいものなし」だそうだ。おばちゃんはないだろう、おばちゃんは。奥様かご婦人と言え。
 外回りから戻ってきたら短い時間で要領よく私の作業をサポートしてくれる。倉庫の資材チェックなどは特に時間がかかってしまうので、彼が手伝ってくれるだけで大幅に短縮できる。そういう細かいところですごく助かっていた。
 ただ、
「俺としては先輩といっしょに早くごはん行きたいなーって思ってるんですけど、このあとどうですか?」
 こういうことを隙あらば言ってくるのが、ちょっとうっとうしい。
 姿勢を戻して、私は作業に戻る。注文した工材は特殊なもので、価格もそれなりにする品だ。サイズ・個数を間違えていないか、もう一度確認する。
「あんまり遅くなると親が心配するからだめ」
「学生みたいな言い訳だなあ」
「母と二人暮らしだから、あまり心配させたくないのよ」
「それならしかたないか」
 聞き分けがよくて助かる。
 と思ったらもっと図々しいことを言われた。
「じゃあ先輩の家でごはん一緒に食べましょうよ」
「はあ?」
 思わず作業の手が止まった。
 それは、どういうことだ。
「タダ飯食わせろってこと?」
 再び振り向いて尋ねると、苦笑いされた。
「どうしてそういう発想になっちゃうかな……」
「だってそういうことになるでしょ」
「たとえば途中で買い物して、俺がお金出す代わりに先輩が手料理を振舞ってくれるとか、一緒に仲良く料理をするとか」
「私、料理しないし」
 下川くんは露骨にがっかりした顔を見せた。
「できないわけじゃないですよね?」
「お湯なら沸かせるけど」
「真顔でボケないでください」
「いつも母が作ってくれるのよ。そりゃ少しはできるけど、こっちに戻ってきてからはろくに包丁も握ってないわ」
「それは残念」
 私は彼の顔を窺う。さっきの表情もわざとらしかったが、たぶん心から残念だとは思っていないのだろう。こういうやり取りそのものを楽しんでいるように見えた。
 私はあまりからかうのもからかわれるのも慣れてはいないのだが……。
「食事、ね」
 私はファイルを閉じて、パソコンをシャットダウンさせた。
「あ、終わったんですか?」
「残りは明日以降じゃないと確認できない事項ばかりだから。で、どうする?」
 彼は虚を突かれたようで、目をしばたたいた。
「……何がですか?」
「だから、食事。どこか行くの?」
「え……っと」
 まだ言葉の意味が呑み込めていないようで、私は彼のそんな反応を見られただけで満足した。
「家に来られても迷惑だから、食事くらいつきあうわよ。で、どこ行く? 特に行きたい場所がないなら、私が勝手に決めるけど」
「……先輩って、ほんと素直じゃないですよね」
 失礼な。
「素直よ。私は」
「だったら俺に対してもっと素直に好き好き大好き超愛してるオーラを見せてくれても痛い痛い痛い」
 両耳を引っ張って戯言を封じた。
「うう……ベッドの中ではあんなに素直なのに」
 知った風な口をきく。
「引きちぎられたいの?」
「耳つかんだまま怖いこと言わないでくださいよ」
「君がばかなことばかり言うからでしょ。まったく、素直と正直は違うものだって、わかってる?」
 あからさまに好意をぶつけあっても疲れるだけなのに。
 彼とは一度だけ体を重ねたことがある。
 飲み会の帰り、泥酔してまともに歩けなかった彼をアパートまで送った時の成り行きで、ほんの些細な出来事だった。
 彼が捨てられた犬のように、あまりに哀しい顔を見せるものだから、なんだかほうっておけなかったのだ。
 詳しくは聞いていないが、彼はうちの会社に来るまでにいろいろなことがあったらしい。学生時代から付き合っていた彼女を上司に寝取られたとかなんとか。まあ、よくあることなのかもしれない。会社を辞めて、田舎に戻ってきて、それでも再就職できて、それなりに生活できている彼を不幸と呼ぶのは、たぶん甘いのだろう。世の中にはもっと不幸な人がごまんといる。
 それでも、人の幸、不幸は比べるものじゃないと思う。
 私にとってはたいしたことではなかった。少しだけ同情して、一晩だけ彼の藁になってあげた。それだけのことだ。
 ただ、それ以来どうにもなつかれてしまったらしく、そこは誤算だった。酒が見せた一夜の夢くらいに思ってくれれば楽だったのに。
 別に嫌っているわけではない。ほんの少し、若い時分を思い出させるような彼の好意の発露に戸惑いがあるだけだ。まったく、体を重ねたくらいで“はしか”にかかっていては、この先苦労するぞ。私があくどい女だったら、君を夢中にさせて金を搾り取るくらいはしたかもしれないぞ。
 荷物をまとめて、戸締りを確認する。一足先に外に出た下川くんを待たせるのも悪い。ドアを開けると、夕暮れの薄い光が風と共に私の体を包んだ。今の時間帯なら日中と違ってそこまで暑くはない。
「先輩、駅前の居酒屋行きましょうよ」
 駅前にはこの町唯一の飲食街がある。
「飲むの?」
「軽くですよ。軽く」
 弱いのにお酒好きというのは厄介だ。また一人では帰れなくなるぞ。
 彼の背丈は私よりも10センチ以上は高かった。並んで歩くとそれがよくわかる。私も高い方なのだが、彼は180くらいはありそうだ。顔だって悪くない。少し幼い印象を受けるのは、普段の彼の言動のせいだろう。あと、髪が短いせいもあるかもしれない。
 改めて見ても、ふられるような子には見えない。相手の上司がよっぽどうまくやったか、彼が人の悪意に鈍かったか、そんなところだろうか。
「今日は酔いつぶれないようにがんばります」
 下川くんがよくわからない決意を固めている。
「飲まなければつぶれることはないのに」
「いや、でも飲みたいです」
「なら制限すればいいわ。2杯だけにしておくとか」
「先輩はお酒嫌いなんですか?」
「大好きよ」
「じゃあいいじゃないですか。2杯だけなんてそんなさびしいこと言わずに」
「ひとりで飲むのが好きなの」
 途端に彼の顔がひきつった。その様子がおかしくて、私は思わず笑った。
「ま、今日は運転手に徹するから、君は好きなだけ飲みなさい。節度をわきまえてね」



 こういう展開を想定していなかったわけではない。
 お酒をコップ4杯飲んだだけで、下川くんは酔いつぶれてしまった。前と同様に私が車でアパートまで送っていったが、一人では部屋までたどりつけないほどの酩酊具合で、結局肩を貸して中まで運ぶ羽目になった。男の体は重すぎる。ワイシャツが汗で肌に貼りついて気持ち悪かった。
 やっとこさベッドの上に寝かせてやると、下川くんはぼんやりした声で言った。
「せんぱい……すみません」
「君は本当にお酒に弱いのね」
 それでも飲むのだから、よっぽど好きなのだろう。目の前であんなにへべれけ状態になられたら、さすがに心配になってしまう。
 私は下川くんに水を飲ませた。戸棚にあったコップに水道水をいれてきただけだが、水分は摂っておいた方がいいだろう。脱水症状になられても困る。
「あー、アリガトゴザマス」
「カタコトになってるわよ。体、汗かいて気持ち悪いかもしれないけど、今夜はお風呂には入らないこと。入るなら明日の朝ね。とりあえず服を脱ごうか」
「ふへへ、せんぱいってばダイタン……あだっ」
「体拭きなさいって言ってるの。タオル絞ってくるから」
「拭いてくれるんですか?」
「10分2万円なら」
「払おうかな……」
「本気にしないの。自分で拭きなさい」
 洗面所から濡れタオルを持ってきて手渡すと、下川くんは素直に自分で体を拭き始めた。長身のために細く見えるが、服の下は引き締まった体にうっすら脂肪を残していて、不健康さは感じなかった。部屋にたどり着いて落ち着いたのか、今は意識もあるようだし、そこまでひどい状態には見えない。これなら放っておいても大丈夫かもしれない。
「それじゃ、私は帰るから」
「え」
 下川くんの表情が一気に曇った。
 私はそれを見て思わずため息をつく。
「なに、その情けない顔は」
「あー、いえ、すいませんなんでもないです」
「そう」
 しかし彼の顔は晴れない。
 何が言いたくて、何を求めているのか、あまりにわかりやすかった。
 私はもう一度ため息をつき、手近の椅子を引き寄せて腰を下ろす。
 彼の視線が私の腰の動きに合わせて微かに上下したのがわかった。
「こら。言いたいことがあるなら、はっきりと言いなさい」
「え? いや、それはその」
「何もないなら帰る」
「ああ、ちょっと待ってくださいっ」
 さっきまでの酔い加減はどこへ行ったのか、彼はすっかり目が覚めてしまったようだった。何度か躊躇するようなそぶりを見せ、下川くんは意を決したように言った。
「先輩……今夜は、泊まっていきませんか?」
「……ふむ」
「いや、違う。泊まっていってください。帰ってほしくない」
 そういうストレートな頼み事は、嫌いじゃない。
「あのさ」
「はい?」
「私って、自分では結構きちんとした性格だと思ってるの」
「……はあ」
「妥協は好きじゃないし、油断は許せないし、たぶんそこそこ厳しい方だと思うの」
「……」
 下川くんは上半身裸のまま、私の言葉に黙って耳を傾けてくれた。いや、服は着てくれていいよ。
「だから、誰かを甘やかしたりするのはよくないことだと思うし、はっきり言っておかなければいけないとも思うのね」
「はい」
「で、下川くんはたぶん私に……好意を持ってくれているのよね」
「……はい」
「でも私はそれを風邪みたいなものだと思っているわけ」
「そんな」
「思っているわけ。だから私は君に恋愛感情のようなものを抱いて関係を深めていく――という風には、たぶん動けない。だけどそれはそれだけのことだから、君のことをふるとか嫌うとか、そういう話でもない。私が言いたいことわかる?」
 彼は首を振った。明らかに困惑しているようだったが、私は続ける。
「簡単な話よ。恋人にはなれないけど、それはそれだけの話。そして君は、たぶん私のことを抱きたいと思っている」
「――」
 目に見えて下川くんは動揺した。視線があっちこっちさまよって、こちらとまともに目を合わせようとしない。
「で、現状私には付き合っている異性はいないから、君と肉体関係を持つことにそこまで抵抗がなかったりするの。だから、関係を深めていくとしたら、そういう関係になるのもありだと思うのだけど、どうかしら?」
 下川くんは放心したように私の顔をぼんやりと見やった。
 私の話、ちゃんと理解できただろうか。
「先輩……」
「ん?」
「もしかして、経験抱負だったりします?」
 まさか。
「セックスしたのは君が二人目。回数も、そこまでない」
「……なのに、先輩はそんなことを言うんですか」
「そんなことって?」
「その……そういう関係になるって」
 下川くんが言葉をがんばってつむごうとしている。彼は意外にうぶなのかもしれない。昼間はふざけてセクハラまがいのことをするくせに、真剣にそういう話をすると気恥ずかしくなってしまうような。
 中高生みたいだ。
 なんとなく、彼が恋人を寝取られた理由がわかる気がする。
「セックスなんて、そこまで特別なものじゃないよ」
「でも」
「『セックスイコール愛だなんて二流脚本家のテレビドラマだ』ってこと。あ、これ昔読んだ漫画の台詞ね」
 少しおどけて言ったけど、冗談で言ったわけでもない。
 人間は社会通念や倫理観念、学習によって刷り込まれた価値基準を捨て去ってしまえば、年齢も性別もまるで関係なく、誰とでも性交渉ができるのだ。
 特別視することは悪くないが、そこに拘泥してしまうと、彼はまた失敗してしまう気がする。もっと気軽に、気楽に考えていいのだ。
 そうじゃないと、いつまでも過去を乗り越えられない。
「いいじゃない。気になる人とセックスしたいと君は思っていて、私はそれを断らない。恋愛が絡まないだけ。それでいいじゃない」
 田舎に戻ってきたからといって、狭い世界にとらわれる必要はない。
 私なんかよりも、もっといい相手を見つけなさいな。
 職場でたまたま知り合っただけのアラサー女にこだわっても、いいことなんて何もないよ。
 そう思って言ったのだが、彼は首を振った。
「そんな風に考えられるなら、そもそも恋愛なんてしません」
 彼の口調ははっきりとしていて、もう酔いからは覚めたようだった。
「俺のこと、嫌いじゃないんですよね?」
「うん」
「でも好きでもない?」
「だからそこが極端というか、視野が狭いところだと思うのね。好きか嫌いかだけで物事を測れるわけがないのに、君はそうしてしまっている。それが恋愛だと言われればそうなのかもしれないけど、私は違うの。君のことは好きよ。かわいい後輩だ。でもそれが付き合うとか一緒になるとかそういうことに結び付くかは、また別問題」
 嫌いな相手に体を許すほど私もオープンではないから、彼のことはそれなりに好きなのだろう。私なりに、と言った方が正しいかもしれない。でもそれは絶対に彼の感覚や価値基準とは違うものだと感じるのだ。
 まあ世の中の多くの人たちは、そういう齟齬を薄々感じつつも折り合いをつけて付き合ったり別れたりしているのだろうが、今の彼にそれができるとは思えない。
 つまりは私と付き合った場合、別れた後に彼が立ち直ることができるような気がしない。
 何の責任も義理もないのだから放っておけばいいのかもしれない。しかし、それができるなら最初から一晩の藁になったりしないのだ。
 我ながらめんどくさいことを考えていると思う。
「風邪なんかじゃないと思うんですけど……」
 下川くんはややためらうように、間を置いた。
「その……視野狭窄かもしれないけど、それでもやっぱり好きですよ。男だって、好きでもない相手とセックスなんてしないんです。そりゃ行為自体はできますよ。でも気持ちが伴っていないと、それは相手の体を使っただけの自慰行為みたいなものっていうか。それで、あのときの俺は酔ってましたけど、ちゃんと先輩のことを見て、好きだと想って、したんです。だから、好きです。ちゃんと、好きです」
 まっすぐな目で見つめられて、まっすぐな想いをぶつけられた。
 さすがに顔が熱くなった。
 まいったな。
「そういうストレートな物言い、勘違いさせちゃうよ」
「勘違いなんかじゃありません」
「君じゃなくて」
「え?」
「なんでもない」
 私はひとつ息を吐いた。今日は飲んでいないはずなのに、なんだかあてられたような気分だ。
「……風邪じゃないのはわかった」
「じゃあ」
「でも私はもう少しじっくりした、落ち着いた関係がいいかな」
「……どういう意味ですか?」
「簡単に結論を出すのは好きじゃないってこと」
 大体、職場に恋愛を持ち込むような面倒なことを私がするはずがないのだ。
 私は椅子から立ち上がると、彼が寝ているベッドの縁に腰を下ろした。
 下川くんの喉が微かに鳴るのがわかった。
「気が早いわよ」
 私は彼の左頬に右の手のひらを当てた。
 彼の熱が伝わってきて、私はそれを冷ますかのように手のひらを当て続ける。
 下川くんの目が赤みを帯びている。
 その目がまっすぐ私を見つめている。
「君さ、実は最初からあまり酔ってなかったでしょ」
「え?」
「いくらなんでも酔いが醒めるの早すぎるよ」
 下川くんはうろたえたように視線をあっちこっちに迷わせる。
 まったく、ちょこざいなやつ。
「そんなに引き止めたかったの?」
「……いや、その、……はい。すいません」
 別にいいけどさ。
「ひとつだけ。泊まりは無し。終わったら帰るから」
「もう遅いですよ。あと1時間で日付変わ」
 唇を奪った。
 下川くんは少しだけ身じろいだが、すぐに順応して応えてくれた。
「だから、早くしないとね」
 離れると、下川くんはなぜか恨めしげな顔になった。
「こういう不意打ち、できれば俺の方からやりたかったんですけど」
「こういうのは先手必勝だから」
 答えながら服を脱ぐ。ハンガーを借りて壁のフックに下げる。あっという間に下着姿だが、気にしない。
「なんかムードも何もないような……」
「君は乙女だねえ」
「先輩は男前ですね」
「そんなのじゃないよ。私は私」
 そう。私は私だ。
 だから、勘違いなんてしてあげない。



 下着も脱ぎ去って、私は部屋の真ん中で生まれたままの姿になった。彼の視線が体に刺さる。鼓動が微かに早まるのを感じた。
 悟られないように、小さく深呼吸。喉が動く。
「……それじゃ、おじゃまします」
 彼のベッドに両手をついて上がる。四つ足で侵入するとなんだか猫になったような気分になる。
 下川くんが慌ててスラックスを脱ぎ始めた。ベッドの上で苦闘するその様子がおかしくてつい笑うと、彼はため息をついた。
「覚えておいてくださいよ」
「何を?」
 彼は答えず、裸になるや私の手を取って引き寄せた。急に引っ張られて体勢を崩し、私は彼の胸元に体を預ける形になった。
 抱き留められて、頬に彼の体温を感じた。
 離れようとしたら、そのまま抱きしめられてしまう。汗の匂いと、胸の奥の鼓動を感じ取り、私は浸るように目をつぶった。
 背中を撫でる彼の手は、少しだけ冷たい。緊張しているのだろう。たった一度、一夜を共にした相手とこうして再び抱き合うのだから、それは緊張して当然だろう。平静を装っているが、私だって少し動悸が早くなっている。
 そうだ。私は今から彼とセックスするんだ。
 改めてそのことを自覚すると、途端に恥ずかしくなった。
 なんだか彼の想いにあてられたような気分だ。私まで学生のころに戻ったような。
 そんなことを思っていると、下川くんの体が動いた。
 寝返りから体勢が入れ替わり、私は柔らかいシーツの上に押し倒された。
 不意を突かれて戸惑っているところに、下川くんは構わず覆いかぶさってきた。
「ちょっと……」
 意趣返しなのか、今度は向こうから唇を塞いできた。私はすぐには順応できず、体を身じろがせる。しかしびくともしない。当たり前だが、体格は彼の方がずっと大きいのだ。少しばかり抵抗したところで、どうにかできるはずがない。
 強引なのは一瞬だけで、下川くんのキスは優しいものだった。酔いが抜けているせいか、前の時よりも落ち着いている。合わせた胸を通して伝わる鼓動は依然として速いものの、そのリズムはキスの温かさを助けるように心地よい。
 唇を当てて、ついばむように触れ合って、やがて深くつながりあう。舌を入れ、お互いのものを絡め合い、舌先のしびれが全身に広がるような快感を覚え、だんだんと体の熱が上がっていくのを自覚した。
 まずい。キスだけで軽く達しそう。
 相性がいいのか、それとも欲求不満なのか、私は自分の興奮をうまくコントロールできなかった。
 考えてみれば前の時もそうだった。酔っぱらいと寝るのは決して気持ちのいいものではないはずなのに、どういうわけか彼に対しては、そこまで抵抗を感じない。
 下川くんの年上に対する受けの良さは、こういうときにも有効なのだろうか。馬鹿な考えが頭に浮かんで、私は苦笑した。
「なんですか」
「なんでもない」
「気になる」
「私はまだ若い方だと思うから納得がいかない」
「は?」
「うるさい。聞き流せ」
「……先輩はすごく魅力的だと思いますよ」
「そこは若いってはっきり言いなさい」
「せっかくオブラートに包んであげたのにめんどくさい人だな!」
 またキスを交わす。
 彼の手が私の体を撫でまわす。下川くんの手はバスケットボールを片手でつかめそうなくらい大きい。でもその手つきは決して乱暴ではない。むしろ優しすぎてくすぐったいくらいだ。胸を触るときも、揉むというよりはさするような感じで、少しだけ物足りなく思った。
「焦らすの上手いね」
 下川くんはきょとんとなった。
「そんなつもりはなかったんですけど」
「酔ったときとか興奮したときとか、つい乱暴になってしまうものじゃないの?」
「そんなことしたら先輩が痛いでしょ」
「まあね」
 とはいえ、刺激が足りないのも事実だ。
「もっと強くしてもいいよ。別にこの程度のことで嫌ったりしないから、安心して気持ちよくなりなさい」
 すると下川くんは眉根を寄せた。
「なんか、余裕綽々ですね」
「そう?」
 実際はあまり余裕がないのだけど、言わない。
「先輩が乱れるところ、見たいな」
「簡単に見せちゃうとありがたみがなくなるでしょ」
「見せてはくれるんですか?」
「そこは君の腕によるかな……んっ」
 胸の先端を摘まれて、体が反射的にこわばった。
 下川くんの手つきから遠慮が抜けていくのが分かった。挑発をしたつもりはなかったが、結果的にそうなってしまったのかもしれない。太ももの内側をまさぐられて、私は身をすくめた。
 服がないと人は不安になる。解放感と、それに伴った後ろめたさが胸に降りてくるような気がして。ましてや今は、無防備な姿を相手にさらしている。羞恥と、わずかな興奮を覚えて、私は仰向けのまま再び深呼吸をした。
 下川くんは嬉しそうに微笑んだ。
「もう濡れてる」
「え? ……ちょ、こら、見るな!」
 まじまじと見られることに対する心構えはまだ整っていなかった。今度こそ私は不意を突かれて、頓狂な声を出してしまった。
「かわいい」
「や、何言って……ひうっ」
 下腹部にざらついた感触が走った。
 舐められている。
 下川くんが私のそれに舌を這わせている。
 脚をばたつかせて抵抗しようとすると、両腕でがっちりと捕まえられて固定された。動けなくなる。びくともしない。
「そんなことしなくていいから! ふあ……んんっ」
「俺がしたいんです。前の時はできなかったことをしたいです」
「変態か君は!」
「前の彼氏はしなかったんですか?」
「あっ、あたりまえ……あっ、や……っ」
 彼の舌が中に入ってくる。指でも性器でもない物が入ってくる感触は、不安な気持ちにさせた。
「乱れるところ見たいって言ったでしょ。乱れてよ、いっぱい」
「うるさいばかっ、あとでおぼえてなさ……んんんっっ」
「それはさっき俺が言いました」
 舐めながらしゃべるなんて器用なやつだ。しかし味わったことのない刺激の前に、それを言葉にすることもできない。
 私には耐える事しかできない。
「もうだめ……だめえ……」
 後輩にこんな情けない声は聞かれたくなかった。年下の男に翻弄されるなんて私らしくない。
 下川くんの舌が急に離れた。
「あっ」
 途端に刺激が消失して思わず声が出てしまった。
「……」
 下川くんの頭が下からひょっこり現れる。そのにやついた顔は私の神経を妙に逆撫でした。
「……今の声、あれですか? ひょっとして物足りないっていう――ぶげっ!」
 顔面に蹴りをぶち込んだ。
「調子乗るな阿呆!!」
「ぐうう……眉間にモロに……」
「反省しろ馬鹿!」
 私は上体を起こすと、のたうち回る馬鹿の体を抑え込んだ。
「な、なにするんですか」
「私が主導権を握る」
「……素直に上になりたいって言えばいいのに」
「そのにやけ顔にもっかい蹴りぶち込んであげてもいいんだけど」
「あ、すみません。メチャクチャ効いたんでやめていただければ幸いです」
「……なんだかんだで君のペースに巻き込まれちゃうなあ」
 そもそも今日はさっさと帰るつもりだったのに。
 下川くんは懲りない様子で、まだ頬が緩んでいる。
「なにがそんなにおもしろいんだか」
「違いますよ。おもしろいんじゃなくて、うれしいんです」
「私をからかうことが?」
「先輩とこうやって距離を縮めていることが」
 今から抱き合おうとしているのだから距離が近くて当たり前なのだが、まあ当然そういう意味ではないのだろう。
 私は抗弁しなかった。する意味がなかった。
「君みたいな変わり者は、さっさと他にかわいい子を見つけた方がこっちは楽なんだけどね」
 首を傾げられた。
「先輩はかわいい女の子ですよ」
「その程度の言葉で揺れるほど私は甘くない」
 君のように若い甘さはもう持てない。
「大丈夫。辛い物も好物です」
「……まったく、もの好きなんだから」
 今日何度目かもわからないため息をついてから、私は壁時計を見た。
 日付が変わるまであと30分しかない。
「ちょっと激しくしようかな」
 さっさと終わらせてさっさと帰ろう。
「じゃあ俺も最初からガンガン飛ばしていきます」
「君は何もするな」
「いや、でもつい腰が動いちゃうと思いますよ」
「だから私が主導権をにぎ……んんっっ!」
 いきなり入れられた。その刺激にこらえようとしたけど、空気の塊を一緒に吐き出すように口の端から声が漏れた。
 上半身を押さえつけてコントロールしていたはずなのに、下川くんは器用に腰だけを動かして私の中心を捉えた。
「ま、まって、ちゃんと着けてる?」
 感触だけではいまいちわからないのだ。
「着けてますよ。ほら、空袋」
「いつの間に……あんっ」
 声を抑えるのは難しかった。考えてみれば騎乗位なんてほとんどしたことがなかった。主導権を握るとはいったものの、どう握ればいいのかわからなかった。
 逆に相手は生き生きしていた。
「あ、今の声かわいい。ここ弱いんですか?」
「うるさい、勝手に動くな……ひぁんっ!」
 下腹部と連動するように、脳天がびりびりしびれる。なんでこっちの弱いところを的確に突けるんだろう。
 ああ、だめだ、これじゃ先にまいっちゃう。終わった後にちゃんと帰れるだろうか。いやそれより、
「下川くん」
「はい」
「君、どこかのマダムに手ほどき受けてたりしないよね」
「どういう思考回路持てばそういう結論にたどり着くんですか!」
「君は年上に好かれるタイプだから……」
 呆れた顔で下川くんは首を振った。
「俺が一番好かれたい女性は、先輩だけです」
「あ、逆にその言葉で冷静になれた」
「いくらなんでもひどくないですか!?」
「ひどいのは君の経験詐欺だ……なんでこんなに手際がいいの……」
 呼吸が荒くなっていく。肌を汗が伝う。
 決して気があるわけじゃないが、相手のぬくもりを今だけは、もっと、もっととほしがってしまう。
 私は上体をかがめて、彼我の素肌の距離を縮めた。
 唇の距離を縮めた。
 少し酒臭くて、でもぬくもりのある柔らかさは安心できて、雛がえさをほしがるように夢中で彼の唇を求めた。
 達するまでに時間はかからず、ほどなくして私の体は、高まった熱を放出するように脱力の瞬間を迎えた。



 シャワーを借りて軽く汗を洗い流したら、仮初めの甘ったるい気分はきれいさっぱりなくなっていた。スーツを着直して玄関で靴を履いていると、後ろから彼の声が聞こえた。
「やっぱり帰っちゃうんですか」
「明日も仕事でしょ。君も早く寝なさい」
 振り返ると、ベッドの上の彼はこちらを窺うように見ていた。一応薄いタオルケットで下は隠しているが、他には何も身に着けていないので、行為のあとの生々しさが感じられる。
 さびしそうな目をしないでほしい。まるでこっちが悪いみたいじゃないか。
「それじゃおやすみ、下川くん」
「あ、ちょっと待って先輩。最後に一つだけ」
 ドアを開けようとして、呼び止められた。再度振り返ると、下川くんはためらうような口ぶりで、それでも切り出してきた。
「これ、聞いていいか迷ったんですけど……」
「ん?」
「……先輩が恋愛ごとに淡白なのは、やっぱり理由があるんですか?」
 微妙なことを聞いてくる。
 私はどう答えようかしばし迷った。
 その逡巡にこちらが気を悪くしたと思ったのか、下川くんはすみませんとつぶやいた。
 誤解しないでほしいな。
 別に君が考えるような何かがあったわけじゃないから。
「元カレと過去に何かがあった――とか、そういうこと想像してるんでしょ」
 目に見えて狼狽する下川くんに、私は笑いかけた。
「そんなものないよ。ただ――田舎に戻ってきて、遠距離で関係を保てるほど私たちは甘くなかった。それだけ」
 別れ話をはっきり切り出したわけじゃなかった。
 ただ、距離が離れて、熱が引いていくのを感じたのだ。それはきっと「あいつ」もそうだったに違いない。同僚からの情報によると、新しい子と付き合い始めたらしいし、それを聞いたときによかったと思った。よかったと思える時点で、私はもうあいつとの関係を終わったものにしていたのだ。
 さびしさがないわけではない。でも何らかの関係がそういう風に自然消滅することなんて、人生においてはよくあることだ。さびしいとは思っても、悲しいとは思わなかったのだから、私はどうやらきちんと折り合いをつけられたらしい。
 折り合いをつけて、人は生きていく。
 その中でどうしてもこだわってしまうものもあるだろう。下川くんが私に固執するのも、もしかしたらそういう譲れない部分が根底にあるのかもしれない。だが、私はもう、そんな色恋沙汰にあまりこだわらなくなってしまったのだ。
 そのうちタイミングが合えば、誰かと結婚したりして、子供を産むことさえあるかもしれない。しかしそれは恋愛感情100パーセントで成り立つようなものではない。
「何もなかったから、何もないまま終わったから、それが多少は私の生き方、考え方に影響を与えているかもね。でも、それはただそれだけのことよ。あとくされなく終わったんだから、それはいいの。それでよかったの」
 私の言葉を聞きながら、彼は泣き出しそうなほど目元をゆがめていた。
「……よく、わかりません」
「それはお互い様。私も、君のことはよくわからない」
「わかりやすいと思うんですけどね」
「わかりやすすぎて逆にピントがぼけてる感じがする」
 彼はぎこちなく笑った。どこか無理をしているようだった。
 まったく、視野が狭いってさっき言ったばかりなのに。
「大丈夫。ちゃんと君の気持ちは伝わっているから」
「え?」
「もう風邪だなんて、言ったりしないよ。君は私のことが好き。それはちゃんと認めるから」
 下川くんの表情がみるみるうちに、明るく晴れやかなものになっていく。
 現金なやつめ。
 私はそんな彼にくぎを刺した。
「だからって、私は君に合わせて変わってなんかやらないからね。私の気持ちや考え方を変えたかったら、きちんと主導権を握って、私を引っ張れるくらいになりなさい」
「……善処します」
 その言葉に笑ってうなずくと、私は玄関を出て、今度こそ帰路に着いた。



 母には途中で連絡を入れておいたが、さすがにもう先に寝ているだろう。とっくに日付は変わっている。
 深夜の田舎道は人どころか野良猫の影さえ見当たらず、怖いくらいに静まり返っている。
 真っ暗な道を走りながら、私は下川くんのことを考えた。
 いつか私が彼に寄りかかる日がやってきたりするのだろうか。
 今は寄りかかられるばかりで、とても対等には見られないが、男子三日会わざれば……とも言う。
 あっという間に成長して、男の子は大きくなっていく。
 明日の彼はもしかしたら、私の知らない彼になっているかもしれない。
 この心が揺れる日が果たして訪れるのか、少しだけ期待してしまう。
 ハンドルを切りながら、私は誰にともなくつぶやいた。
「ま、お手並み拝見と行きますか」
 なんだか子供の成長を待つ親の気分だ。
 どうやら恋愛気分にはまだまだ程遠いようだった。


作者情報


作:かおるさとー様
The scent of sugar.
2015/11/14